沖縄県知事選・玉城氏が勝った。
久々にめでたいことだ。 しかし、報道ではその後の事が報道されない。 翁長さんの県民葬においても安倍首相は参列せず、菅官房長官に弔辞を代読させたりしている。 この時は、内容などで罵声が飛んだことをTVでは伝えていたが大きく問題として取り上げていない。 どうなっているのだ。一番大事な辺野古移転についての報道が無い。 調べたところによると辺野古の問題は、
1996年2月24日昼、伊藤茂・社民党幹事長の自動車電話が けたたましく 鳴った。 秘書が受話器を取り、伊藤に取り継いだ。サンタモニカでクリントンと会談した橋本太郎首相からの国際電話だった。 「伊藤さん、クリントン(米大統領)に『普天間を返せ』と私はいいましたからね」。橋本の興奮した声は受話器から飛び出るほどだった。生前、伊藤から聞いた話だ。 自社さ政権時、自民党の政調会長だった橋本と社会党(後に社民党)の政策審議会長だった伊藤にとって、沖縄には特別の思いいれがあった。 それから2ヵ月たらずの4月12日、日米両政府は普天間飛行場を日本側に返還することで合意した。 前年に起きた米兵による少女暴行事件を受けて、在沖米軍基地の返還などを謳ったSACO(沖縄に関する特別行動委員会)の最終報告が1996年12月に出た。 SACO最終報告によると普天間飛行場は閉鎖され、キャンプシュワブ沖合2.5㎞のフロート(浮体)に移設される。 フロート基地であれば国際情勢が変わった場合に撤去できる・・・というのが日米両政府の考えだった。 昨年、沖縄を訪れたペリー元⽶国防⻑官は翁長知事に「朝鮮半島の緊張がなくなったら沖縄の海兵隊は要らなくなる」と語った、という。 沖縄県基地問題の最高責任者から聞いた話だ。 普天間閉鎖に伴う移設先は、いつの間にか辺野古沿岸、それも埋め立て基地となった。 琉球人の元トップ官僚によれば「辺野古埋立ては日本側の都合だった」。巨大公共工事で潤うゼネコンと政治家が背後にいるのだ。 SACO最終報告通りに進めていれば、サンゴとジュゴンの海を⼟砂で埋める恒久的な基地など必要なかったのである。 日米ロードマップでは2014年までに普天間基地は、キャンプシュワブの沖合に移設させることになっていたのである。 SACOによれば、普天間閉鎖の条件はキャンプシュワブ沖に浮く海上基地であって、辺野古埋め立てではないのだ。
SACO最終報告を見てみた。長いので一部を引用すると
平成8年12月2日、SCCは、海上施設案を追求するとのSACOの勧告を承認した。 海上施設は、他の2案に比べて、米軍の運用能力を維持するととも に、沖縄県民の安全及び生活の質にも配意するとの観点から、最善の選択であると判断される。 さらに、海上施設は、軍事施設として使用する間は固定施 設として機能し得る一方、その必要性が失われたときには撤去可能なものである。
とある。 海上基地であって、辺野古埋め立てではなかったのだ。 また、玉城知事は選挙戦の中で次のように言っている。
2012年に沖縄 の海兵隊9000人はグァム、ハワイ、オーストラリア、米本国に移転させると発表されました。辺野古新基地に関係なく、です。 2006年のSACO合意、普天間は辺野古に移すというパッケージ論はなくなったのです。 それなのに政府は6年間もこのことを放置したままです。 だったらアメリカに要求しましょう。普天間飛行場は即時閉鎖し、我々沖縄県民に返還しなさい。 それが私たちの正義です。普天間の返還は来年の2月が期限です。
この辺りの事について、色々資料があって良くわからない。 天木直人氏は、1995年の米兵による少女暴行事件の時点の政府の対応について、次のように言っている。
燃え上がった沖縄県民の怒りは、普天間基地の無条件撤退を求めた。もし橋本自民党政権がその怒りを米国にぶつけて普天間基地の無条件撤退を貫いていれば、そもそも辺野古移設問題などあり得なかったのだ。
全くその通りだと思う。 安倍首相はどうして玉城知事を当選させた沖縄の人たちの思いを大切にしないのだろうか。 表面的な言葉を言うだけで真摯に受け止めようとしない。言っている事とやろうとしていることが正反対だ。 県民葬で怒号が飛び交うはずだ。
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